『表現の自由® vs 知的財産権』読んだ

表現の自由vs知的財産権―著作権が自由を殺す?

表現の自由vs知的財産権―著作権が自由を殺す?

内容以前の何か

この手の本を読むときにしばしば思うのは、どうして横書きにしないんだということです。今時は憲法の教科書だって横書きなのに。
特に本書は外来語や外国の固有名詞が多く、カタカナまみれでメリハリがありません。Linuxリナックスと表記するのはまだしも、Reasonをリーズンと表記してるものは初めて見ました。
日本語の漢字仮名まじり文の読みやすさというのは、連続する漢字は何らかの名詞であったりとかカタカナ語は外来語であったりとか、文字種を見るだけでそれが何であるかをある程度推定できることにあるわけですが、こうもカタカナまみれだとそうした推定の実効性が低くなってしまう。一般名詞はカタカナ、固有名詞はアルファベットで区別して欲しいです。


以上は日本語版についての何か。以下は本書の内容以前の何か。
アメリカの修辞学は論理的であることよりも畳み掛けることを優先して、知的な文章とは感じられません。あっちこっちに話題を飛ばすことで読者を混乱させ、あたかもそれによって適切な反論を封じようとするが如きです。そういう本です。
あとそうやって話題を分散させるもんだから各節には適切な表題をつけるのは難しい作業になるんでしょうけども、それにしたってなお内容と合わず索引として機能しない表題をつけてます。
しかも内容があっちこっちに飛ぶというのが、本書では単に読み辛さにとどまらない大きな欠陥にもなっています。一口に「知的財産権」といってみたところで、そこで語られるのは著作権だったり特許だったりするわけですが、それらを区別すること無く、恐らく意図的に混用しています。これは手口がバレてしまうとスカスカなのが見え見えです。


内容自体の評価はさておき、同じ題材でももっとマシな本が世に出せたろうに、と思います。

全体的な何か

アメリカの知財法制は馬鹿だなぁ。以上。
どうもアメリカの知財法制は洗練されてないようです。こんな出来の悪い法制度下にいたら、そりゃ著者のように逆方向の極論へ走りたくもなるかもね。
でも日本の知財法制はこれよりは洗練されているので、基本的には無視して良いと思います。本書には、日本人が尊重したり参考にしたりするべきものは殆どありません。
具体的に言えば例えば、著作権という制度は著作権者と利用者の相互の権利の調整を図らなければならないところ、米国では著作権者の権利一辺倒な制度になっています。
例えば米国では著作物の引用については公正な利用という判例法理によって認められうるに過ぎないようです。もちろん米国は英米法の国ですから判例法の意味は大陸法のそれよりは重要ではありますが、それでも日本の著作権法32条が引用を明示的に認めているのに比べれば遥かに弱く、実際にその認められている範囲も日本のそれの方が遥かに広い。そして米国では引用が大きく制限されている結果、また「公正な利用」が認められるか否かの基準が流動的である結果、大企業は自己に不利な形での引用を訴訟によって叩き潰し、あたかも著作権を、自己を馬鹿にさせない権利であるかのように用いられているようです。
そんな感じで、アメリカの知財法制は馬鹿なんで黙殺してしまいところなんですけど、そういう風変わりな法制度であるアメリカが多くの知的財産を製産しているもんだから、こういう暴力的マイノリティへの対処は他の国も必要になるわけで、そういう意味で、棍棒を振り回してくるアメリカ人への対処法を考えるためには本書も参考になるかもしれないです。
繰り返しになりますが、日本人が日本の知財法制を考えるにあたって本書に敬意を払う必要はありません。

著者の主張の幾つかに対する何か

なるほど違法にダウンロードした音楽が気に入ってCDを買うことがあるかもしれない。
でも、果たしてダウンロードが合法とされた世界でも同じようにCDが売れるかな?
それに、それが合法とされたなら「賢い消費者は音楽を買わない」ということになるよね?全く金を払う気のない人間の方が音楽に金を払う人間よりも豊かな音楽ライフを満喫できるというのは奇妙な話だと思わないかい?
後から買ったCDによってその音源についての違法DLは治癒されるという法制なら確かにあり得なくもない(もっともこれは立法政策的には疑義がある。後述)。制作者自身が宣伝目的で自己の楽曲のダウンロードを許可することもあるだろう。でも、誰かの曲についてDLが許されるべき事情があるからって、およそ全ての場合に無償でのDLが許されるべき理由にはならない。
ついでに。後から違法が治癒されるような法制度であったなら、バレるまではDLしまくり、バレても文句を言った相手の分についてのみ買うという手口が横行するでしょう。違法行為の抑止効果を著しく損なうことになります。


こうやって著者の意見にもケチをつけているけど、それは著者が反対側の極論に走っているからであって、本書で糾弾されている米国の知財法制もやっぱり問題有りです。原曲が分からないまでに分解された1音に莫大な金額を請求するが如きは、捜索活動に対する大きな足枷になる。また、制作者は広まることに喜びを感じても、著作権者=企業が作者の意志に反する行動をとるというのもあまり喜ばしい行為では無いでしょう。

ついでに、日本の著作権法の議論にちょっとだけ

まず、著作権著作者人格権を区別できてない人がたまにいるみたいです。著作権によって保護されなくなったからって、その作品が勝手に改竄されその改竄物が本物として扱われる、なんてことはありません。どうも著作権による保護の喪失を怖れる人の中には作品の同一性が失われると誤解した上でのヒステリーがあるように見える。
それはさておき。
なんか保護期間を死後70年に延ばしたがってる人がいるみたいですけど、反対です。
孫の代まで保護するから70年、ということらしいですが、50歳のおじいちゃんがひいひいじいちゃんの遺産で食ってるというのは妙な話です。孫の面倒は子供が見れば良いのであって、2代に渡る保護の必要性は感じません。
それどころか、1代分の保護で50年というのも長過ぎるように思います。子供も自立して生活するわけで、50歳の中年が父親の遺産で食っているというのは妙な話です。仮に子が0歳のときに著作者が死亡したとしても、長くとも25年もあれば子は自立するのだから、子への云々を理由とする保護期間であれば50年もの長期にわたるのは妥当性を欠きます。
それに著作権保護期間が長くなっても家族に金が行くとも限りません。本書でも指摘されているように、金が入るのは著作権保有する企業にであって、作者の家族には殆ど行きません。それならなおさら保護すべき理由が無い。
他方、保護期間を短縮するべき理由はあります。日本の漫画黎明期の作品は著作権が企業にあるが故にデジタルアーカイブ化が叶わないものが多数あります。本は年々劣化します。その結果、著作権のせいで著作物が完全に消滅することが、現実問題としてあるわけです。レコードもそうでしょう。あるいは商業ベースに乗らないがために復刻されない本も沢山あります。


あと、全然違う話だけどコピーコントロールもどうかと思います。適法な利用まで制限されるので。ましてアメリカのデジタルミレニアム法の如く適法行為のための手段を違法化するのは、適法行為が適法行為たる所以を無視しており愚の骨頂というべきだと思います。
…そういやDRM技術は適法行為を実力によって不当に制限しているわけだけど、法的にどうなんだろう。