原罪を双葉で胎内めぐり

人は泣きながら生まれてくるとはシェークスピアが劇中でリア王に語らせた言葉であるが、彼が泣くのは生まれてくる事によって罪を背負うからである。しかし人が泣きながら生まれてくるのは十字架以前においてもそうだったのであるから、ここで背負われる原罪は決して2000年前に人々がキリストに負わせた罪ではない。
人はみな、生まれ落ちる前は無職童貞ひきこもりである。生まれ落ちる前は彼らは未だ一切の穢れを身に受けない無垢な状態である。
それが生まれ落ちる事によって脱・ひきこもりという世俗の穢れを身に受けることになるのだ。
これが我々が最初に犯した罪であり、胎内からの失楽園であり、それ故、我々は泣きながら生まれて来たのだ。
そして我々はその後、色を知り、職を得る事で、無職童貞ひきこもりという無垢な状態から遠ざかって行くのである。世俗で生きるという事は穢れを身にまとってゆくプロセスに他ならない。


ところで京都の清水寺には胎内めぐりというインスタレーションがある。
暗闇の中を歩くとやがて光明が見え、腹を意味する石に出会いそして暗闇を通って地上に出る。このプロセスを「胎内めぐり」と名付けることで、再生を象徴的に体験させる。宗教色を評価から外しても、優れた哲学を優れた手段で来場者に示す優れたコンセプチュアルアートと言えるだろう。
胎内めぐりが表す母胎への一時的な回帰、それはその人の文字通りの「再生」を促す物である。


然るに虹裏である。
そこでは我々はとしあきという無職童貞ひきこもり、則ち人間の原初の姿へと立ち戻る事が出来る。そこは一切の穢れの無いエデンの園である。
人は虹裏によって、胎内にいた頃と同じ無垢な状態に一時的に帰り、それによって魂の再生を図ることが出来る。
誕生以来身に付け続けた穢れ、それは世俗に生きる限り避ける事の出来ない原罪であるが、それを擬似的に祓う事で、我々は自己の存在の根源を見つめ直す事が出来る。


虹裏とはインターネット上での胎内めぐりであり、魂の救済なのである。


ごめんうそ。