性悪説に関するレデンツ的考察

緒論:悪人の3態様

「悪人」を「悪事を行う者」と定義するならば、悪人はその主観によって

  1. 悪事を行う意図で悪事を行う者
  2. 何も考えずに悪事を行う者
  3. 善行を意図して悪事を行う者

とに分類され得るであろう。
しかるに社会にとって最も厄介であり不幸であるのは第3の類型であろう。よかれと思って為された行為を咎めるのは心が痛むことである。またこの類型は本人にとっても不幸である。その人は主観的には善人でありながら、社会からは迫害を受けるのである。
しかしながらこの第3類型、則ち主観と客観の不幸な不一致は必ずしも珍しいものではないことは、我々の人生で少なからず経験があろうことと思われる。

傍論:ツンデレ

人の属性として「ツンデレ」が提唱されたのはそれほど昔ではないが、その意味は登場時からはすでに変容している。*1
則ち、登場時の「普段はツンツン、二人きりだとデレデレ」という用法(ツンデレの古典的用法)で用いられることは今日では稀であり、通常は「べっ別にあんたのためにやってるわけじゃないんだからね!」という態度をとる性向を示すものとなっている(ツンデレの現代的用法)。
古典的用法ではストーリーを規定するものであったのに対し現代的用法では態度を規定するものである、というような議論はひとまず置くとして、ここでは現代的用法を前提に議論を進める。


ツンデレは内心と表示行為の不一致である(ただし内心は表示行為から透けて見えることが多い)。ツンデレ概念が優れているのはこの多重的な現象をカタカナ4文字で表現している点である。(もっともツンデレの現代的用法で表現される「本当は好きなのに素直になれない」という態度自体はツンデレ概念登場以前から定石として知られていたものである。)

本論

ツンデレにおけるツンは愛情表現の「裏返し」である。ツンデレラの本心はもっとラブラブしたいというものである。
それでは、ツンが本心であるような性向があるとすればそれはいかなるものか、それがここで取り上げる問題である。


「ツンが本心である」というのは相手を嫌っているという意味ではない。むしろ純粋な愛情表現としてツン行為を行うことを意味する。これは本人の愛情という主観の表現行為が客観的にはおよそそれとは正反対に映るという点で、緒論の悪人3態様の第3類型と同様の構造が見られる。
ただし悪人第3類型とは慎重に区別されなければならない点もある。悪人のケースでは行為者にはおよそそれが悪事であるという認識が欠けるのに対し、こちらの場合はツン行為が悪事であるということは認識しうる。すなわち、愛情という善なる意識から悪事への欲求が生じるのであるから、善悪の「判断」が間違っているのではなく、原因と結果に齟齬があることが問題なのである。

この齟齬は表現に至る前、彼女の内心で生じる。従って行為者は自己が邪悪な意思を抱くことに葛藤を抱くことになり、悪事を避けようとする。その結果、彼女は普段は内心を封じ込め善人として振る舞うことになろう。しかし愛情が我慢の閾値を超えるや、押さえきれない愛情表現が相手に向かうことになる。
以上のプロセスを整理すれば、彼女は「他人には優しいが、仲が良くなるほど苛烈に当たる」という行動パターンをとることになる。
このように書くとどうも現実離れをした行動のように見えるが、具体的に考えてみるとあり得ないとも言えない。行為態様としては「好きな子に意地悪」になるが、この「意地悪」は現代的用法におけるツンデレのように照れ隠しとして行われるのではなく、それ自体が愛情表現である。「意地悪」に対し相手は反応をする、そのコミュニケーションこそが彼女にとっての愛の形なのである。


ツンデレラの恋愛は最終的に内心のラブラブ願望に従った形で成就するため、口から発せられる言葉を文字に直せばツンツンしているように見えるかもしれないが、そこから発せられる空気は甘甘になる。他方、本件のような恋愛は成就したとしても、本心からツンツンしているので、傍目にはむしろ仲が悪いようにすら見えるかもしれない。しかし両当事者は、軽口を言い合う悪友同士のような関係こそがその愛の形であり、それを理想状態とすることになろう。
例えば凉宮ハルヒキョンは両者共にツンデレであると言われるが、ハルヒキョンに対する軽口は愛情の「裏返し」であると取るのは正確ではないように思われる。むしろあの軽口自体に、両者の愛を見出すべきであろう。この見解に立つならば、ハルヒキョンに対し必要以上にデレデレする同人誌は不適切であることになる。