〔映画感想文〕フィクションレビュー・映画『汁濁』観てきま

本作は政府高官と思しき人物の衝撃的な記者会見で幕を開けます。

本日より 牛丼の「つゆだく」に 別途20円を 課すものとする!!

会見場は騒然となり、怒号が飛び交う。その熱気は直ちに国中に広がり、全国(日本かどうかは不明)が混乱の坩堝と化す。課金を敢行する支配者層と課金に反対する一般民衆の対立。そして民衆の間でも、つゆだく料金の支払いを厭わない富める者とあくまで反対する貧しき者や理想主義者達とが衝突し、つゆだく闘争は社会階層間闘争の様相を呈します。
しかし作中で登場する勢力は上のようにきれいに割り切れるものではありません。つゆだく課金に反対する『自由汁濁連合』の中でも、あくまで平和的手段での闘争を望む穏健派と武力闘争をも厭わない急進派とが対立し、ついに主流派である穏健派は急進派を汁連から追い出します。しかしそのことが却って情勢を危険な方向へと導いてしまいます。汁連から追い出された急進派は『神聖汁濁協会』(汁協)を名乗り、独自に活動するようになります。そして穏健派というブレーキを欠く汁協は完全にテロリズムが支配する過激派組織となってしまうのでした。
汁協は牛丼屋の店員を拉致し、その数日後、インターネット上にVTRを流します。

(黒の目出し帽を被った男3人が写っている。中央には椅子に縄で縛り付けられ、目隠し・猿轡をされた牛丼屋店員。椅子の前には丼が置いてある。)
「奴らは我々の丼からつゆを奪った。我々の丼は乾いてしまった。この乾きは癒されなければならない。このように!」
(男の一人が牛刀で店員の頸を切り落とす。一度では切れず、牛刀は何度も振り下ろされ、ついに完全に頭が胴と分離する。丼は既に血で染まっているが、リーダー格の男は丼と地面に落ちた首を手に取り、カメラに誇示するように首から滴る血を丼に注ぐ。)
「金の亡者どもに告ぐ。貴様らに与えられた選択肢は2つだ。丼に牛丼のつゆを注ぐか、さもなくば貴様ら自身の血を注ぐかだ。」

そしてこのVTRの発表以後、牛丼屋店員に対する殺害が頻発するようになります。
さらに、この汁協の狂気は社会を覆います。穏健派である汁連は、汁協への共感者(若者が中心)からは日和見主義者として攻撃され、つゆだく課金容認派からはテロリストの同類と見なされるようになります。他方、汁協の行動はエスカレートし、無関心層に対してもこの問題への態度表明を強要し、また、推進派のみならず容認派さえもテロのターゲットにするようになります。
牛丼屋の爆破テロに巻き込まれた母親が、血塗れの腕に我が子の亡骸を抱いて泣き叫ぶシーンは壮絶でした。


もちろん「たかがつゆだく」でこのような社会対立が起こるというのはいかにも荒唐無稽でしょう。しかし本作ではこの指摘に対し、(いささか苦しくはあるが)一応の説得が図られています。主人公の一人である汁連の平林は言います。

確かにこれは些細な問題かもしれない。しかし、本当の問題はつゆだくじゃないんだ。本当の問題は、こうやって我々一般庶民がつゆの量を選ぶという自由が、社会の一部の人間達によって勝手に奪われる、こういうことが起こる社会構造にある。つゆだくはその一例に過ぎない。我々の自由を、一部の特権階級が奪うことを許してはいけない。これは自由のための戦いなんだ。

このように、些細な問題を理念の名の下に大事にしてしまうことは現実でもしばしば見られることでもあり、上の発言によって本作は、フィクションとしてのリアリティをぎりぎり保たせています。
しかしこうして大事になってしまったが故にテロリズムへと発展し、そこに至り課金推進派は課金を撤回できない状況になってしまいます。つゆだく課金を推進する「牛経連」のリーダーとして登場する、本作のもう一人の主人公・原口は言います。

たしかに課金を取り下げるのは不可能ではない。いや、もっと早い時期であればそれも許されただろう。しかしもう無理だ。今、我々が課金を撤回すれば、テロリズムに屈したことになる。我が国の歴史に、国民の記憶に、テロリズムが刻まれることになるのだ。そうなればこの国は今後、どんな問題であってもテロによって意見を通そうとする習慣がついてしまうだろう。そのような未来を受け入れることはできない。

物語は結局、自己が発端となった運動が過激化したことに戸惑う平林が原口と結託し、汁協の本部へ2人で潜り込み基地を破壊、そして課金の撤回を原口が発表するという形で収束させています。少数のヒーローの活躍で全て解決させてしまうというのはハリウッド的な嫌味があり、映画として纏めなければならないという制約はあるにせよ、もっと良い結末を用意できなかったものかと思ってしまいます。また、汁協本部ビルの爆発でもってテロリスト集団の壊滅を印象付けようとするものですが、現実のテロ組織は基地を破壊してめでたしめでたしとなることはなく、本作のラストは楽観的過ぎるように感じられました。

平林「こうして沢山の人の命を失って、得られたのは『つゆだく課金撤回』か。1年前に戻っただけじゃないか。この1年、なんという無駄なことを……」
原口「……確かに、形だけ見れば何も進歩してないかもしれない。けれど、この1年のおかげで俺達は本当の自由が何か、考えるようになった。この成長を、今度は未来に向かって活かさなければならない。俺達の仕事はこれから始まるんだ。」

さて、感想のまとめとして。
本作は正面から描くと胡散臭くなりがちな社会的テーマを、つゆだくというモチーフに落としこむことで臭みを抜いて観せることに挑戦した意欲作と言ってよいでしょう。監督自身は

本作は純粋に娯楽作品です。『汁濁』を観て政治的なメッセージの類を感じる人がいたとしたら、それは僕の意図ではなくて、その人の価値観か、あるいはその社会に問題があるのではないでしょうか。
(パンフレットの監督インタビューより)

というように、政治性を否定しています。しかし、私には上の発言はむしろ含みを感じずにはいられません。
しかし本作を政治的な作品として捉えたならば、ラストの詰めの甘さが気になります。本作が描く、テロリズムの背後にある正義感・抑圧への反抗などの問題は、確かに現実世界では解決が難しい問題です。しかしそうだからといって何らの回答を示さないならば、本作の「意味」という点で全くの無駄であると言わざるをえません。上で引用した原口の言が観衆に向けてのメッセージであると考えても、その進むべき方向性が投げっぱなしというのはあまり関心できないと思いました。考えさせる作品ではありますが、考えさせるだけ、問題提起だけに終ったことは残念です。


っていう感じの映画の予告編を作ってみたいなとか思ってみたりとか。
映画の日だから『涙そうそう』でも観ようと思ったけど、どこで上映してるか調べるの忘れてたから見れなかった。