『それでも僕はやってない』観てきました。

感想書きにくいなぁ…。
映画としての感想を書くのか日本の刑事司法制度について書くのか。後者はこの映画を受けて既にあちこちで素人がいろいろまき散らしてるんだよねぇ…。
しかもこういう文系な話題は一見すると日本語で書いているように見えるから、日本語能力だけをたよりにして語る人がいたりしてなんだったりするし。

まずは映画の感想文として

なんか大盛況でした。
ぜひ彼女と一緒に見に行きたい映画。ほら、もうすぐバレンタインだしばっちり。…いや、私は本当にそれでいいと思いますよ?
すんごい地味な映画です。
刑訴法を知らなくても面白い。刑訴法を知っていればもっと面白い。と、おお振り7巻の帯の宣伝文のパクリ。
学部の後輩も偶々同じ回を観に来てました。法学部なら(引きずられ過ぎないように注意しながら)必見の映画と言えるかもしれませんん。

日本の刑事司法制度の辺りのこと。

普通の人は「うわーひでー、俺が裁判官なら無罪だゼ!」とか、そんな程度の感想で良かったと思いますよ?ちょっと前までなら。
でも裁判員制度が導入される以上、そういう、本人は深く考えているつもりだけど中身がない感想をみんなが持つと実害が出ちゃうのでなんともはや。
この事件は控訴審では逆転無罪になった冤罪事件*1を元に、有罪判決の出た1審時点までをピックアップして映画化しています。そう、2審でちゃんとひっくり返ってるっていう部分をばっさり省略しちゃってるんですね。つまり、そういう意図で作られた映画です。
で、この監督の意図にまんまと乗せられた言説は、自称知識人(ただし刑訴法の知識は無い)たちがあちこちで書いているので、今更私が書くこともないよなぁとか思ってみたりとか。
でもこの映画は明確な意図を持って作られた作品なので、これだけを元に日本の刑事司法制度を論じようとすると、どうしても厚みが欠けるのみならず偏りのある意見にならざるを得ないです。はっ、こうして冤罪は作られるのか!


少なくとも、この映画で描かれる裁判は日本の刑事裁判の典型であるとは言い切れないものがあります。
いや、何を「典型」と呼ぶかにもよるのでこの辺は言葉の定義の問題なんですが…(「典型債権」のように)法律の条文に書かれている形式という点に注目すれば、まぁ概ね典型と言えるでしょう。(もっとも現行犯逮捕は最も一般的な刑事司法手続からはイレギュラーといえるので、その点、典型中の典型ではないと言える。)
しかし80対20の法則に似た現象が法律の世界にもあるわけで。
8020の法則ってもなんか意味的にはわりと幅を持って解釈されてますが、ここでは「プログラムの処理の8割は、分量的には全体の2割のコードが担っている」という系統の意味を意図してます。決して80歳まで20本の歯が残ってるのは2割とかそういう系ではないです。
で、ですね。確かに刑訴法の条文は、争いのある事件についての処理が大半です。でも大多数の事件はそういう風に、捜査を経て逮捕され起訴され争い控訴する、なんて経路をたどりません。幾つもの別ルートがあります。手元に丁度いい資料があったのでさくっと引用。

ダイバージョン
刑事司法の典型は、捜査を経て、起訴され、公判が開かれ、判決が言い渡されるというものである。しかし、手続概観図からも明らかなように、公判手続にまで至る事件は少なく(平成12年の検察庁における終局処理人員の総数は2,181,473人であり、このうち公判請求人員は122,805人(終局処理人員の5.6%)である)、多くの事件は典型的手続からそれて(divert)、処理されている。例えば、平成12年に警察において微罪処分となった件数は75,050件であるが、これは成人の検挙人員の実に42.5%に相当する(とくに、占有離脱物横領罪(その多くは自転車盗)の87.7%は微罪処分となっている)。また、起訴猶予人員も842,106人で、これは検察庁における終局処理人員の38.6%にあたる(『犯罪白書』、『平成一二年の犯罪』)。このような刑事事件の非刑罰的処理のことをダイバージョン(diversion)と呼んでいる。刑法では、犯罪の法効果はつねに刑罰であるが、刑事訴訟法では、犯罪に対してつねに刑罰的処理がなされるというわけではないことに注意しなければならない。
目で見る刑事訴訟法教材』1頁

なので、まぁなんだろう。刑訴法を見ても、あるいは一つの裁判を扱った映画を見ても日本の刑事司法制度の全容は見えて来ないわけですよ。

例えばこの作品で最も広まった宣伝文句の「有罪率99.9%」ですが、作中でも言われているように、これが結果ではなく前提となることが問題なのであって、決して99.9%とという数字自体が悪なのではない。裁判に至るまでには何重ものフィルタがあって、それら全体で一つのシステムなのに、出口に最も近いフィルタだけを取りあげてシステムを論じても意味がない。なのでこの辺にヒステリックに反応されるとちょっと待てよという気になったりとか。
あるいは本作の扱ったのが「痴漢冤罪」であるという点も、一つの特殊性を見なければならないところです。これが殺人事件の冤罪だったらまた違ったんだろうけどねぇ。*2なにせ被害者自身による現行犯逮捕、証拠の残りにくい犯罪であること、処罰への社会的要求の高さ、そうした点が事実認定のゆるさに現れていることは大いにあり得ます。少なくとも殺人事件であれば「私はこの人がやったのを見たんです」と15歳女子中学生が涙ながらに訴えて来ても、それだけで有罪になった事例は聞いたことがないです。
あと、本作では結果的に主人公を陥れることになった女子中学生に対する証人尋問において遮蔽措置が採られていたわけですけど、つまり遮蔽措置は主人公の敵なわけですよ。この映画では。傍聴人の口をして「何が公開の裁判だよ」みたいなことを言わせてみたりして。でもまぁ一応たしなめられてみたりして?実際には遮へい措置とかビデオリンク方式とかは、これまで2度レイプされて来た犯罪被害者の保護が大きく前進した成果であって、むしろ賞賛すべき点。
あるいは、まぁこんな意見は誰も持たないかもしれないけども、「本人が違うと言ってるのに有罪にするなんて」なんて感想を持つ人がいたら、それがいかに危険かを歴史を持ち出して説明しなきゃいけない。要するに有罪判決を出すには自白が必要という意見なんだけども、こういう自白法定証拠主義とでも呼ぶべきものは明治初期までは日本も採用してて、だから自白を得るために拷問が行われてて、たしかボワソナードのツッコミで辞めたんだったと思う。
裁判員制度ならこんな事実認定にはならないはずという意見は一面では道理だけども、他方で裁判員制度下では裁判の迅速化がすんごい重要で、っていうか裁判員制度抜きにしてもここ数年でかなり迅速化したらしいんだけども、だからあの証人が帰国する前に有罪判決が出てたかもしれなかったりとか、2人目の裁判官が証人請求を却下しまくってたけど、裁判員制度の下でも、証人喚問が増えれば裁判が長期化するので仕事に差障るから却下したがる人がいても不思議ではないし。っていうか裁判員制度に対する批判として「あなたは人を死刑にできますか?」なんて意見があるけれども、逆方向の話で「あなたが無罪にした犯人が後日さらなる犯罪を犯しても平気ですか?」という問題もあるよねって話が逸れてる。
他にも色々あるけど。そんなこんなで、この映画を観ての印象だけで色々論ずるのは勇み足。この映画は自信を持って他人に勧められる素晴らしい作品ではあるのですが、教科書代わりには決してなりえない。なので、この映画の感想文として教科書的な議論をするわけにもいかないんだけども。
そもそも主人公と観客は主人公が犯人ではないということを予め知ってるから安心して作中の裁判官を批判できるけど、実際にはそんなわきゃないっていうか誠にアッラーは全てを聴き全てのことに通暁なされるハレークリシュナ。


つまり何て言うかね。主人公はMacユーザーなんだから犯人であるわけがないんだ。


彼女は嘘をついている

彼女は嘘をついている

*1:無罪判決が出たんだから冤罪ではないとも言えるけど。

*2:ちなみに誘拐殺人事件の冤罪を描いた作品として、フィクションですが『死亡推定時刻 (光文社文庫)』をお薦めします。作者は現役の弁護士さんだそうで。