『スティーブ・ジョブズ 神の交渉術』駄本

スティーブ・ジョブズ 神の交渉術―独裁者、裏切り者、傍若無人…と言われ、なぜ全米最強CEOになれたのか

スティーブ・ジョブズ 神の交渉術―独裁者、裏切り者、傍若無人…と言われ、なぜ全米最強CEOになれたのか

何の役にも立ちません。というのは決して「Jobsの交渉術はJobsという特異なパーソナリティの持ち主にのみ行いうるものであって余人に真似できるものではない」というような、本書の内容を踏まえた上での感想ではなく、そんなことはとっくに知ってるのであってそれ以上のことが何一つ書かれていないという点で、全く得るものがない本だったということです。
この本に書かれているのは総じて部外者からも明らかな状況つまり誰もが知りうる「交渉の結果」と、それに関しての著者の薄っぺらい感想や憶測です。現実の交渉の場でJobsが何を行ったか、そんなことは書かれてません。およそこの本を書くにあたって取材らしい取材が行われた形跡が見られません。
本書を最初に開いたときに文字の大きさと余白の広さに驚きましたが、内容はそれにも増して薄っぺらい。見出し程度のことしか書いていない本というのは良くありますが、この本はもっと程度が低く、見出しの内容すら書かれていません。


本書はかなり適当な本です。例えばしょっぱなの、アップルの社名に関する話ではこんな具合です。

ところで、アップルコンピュータという社名は、熟慮と議論を重ねた末に生まれたものでも、占いによる縁起かつぎで探し出したものでもなかった。共同創業者であるスティーブ・ジョブズスティーブ・ウォズニアックの間で「まっ、これでいいか」程度にポツリと産み落とされた名前にすぎなかった。
ジョブズが一時期社員をしていたビデオゲームメーカー『アタリ社』よりも電話帳で前に載る名前にしたかった」とか「ドライブ中にリンゴの木を見てひらめいた」など諸説あるが、これだという確固たる由来には行き着かない。
しかし、ビートルズを聴きながら青春時代を過ごした二人が「ビートルズが好きだったから」つけたと見られても不思議ではない。
17頁、強調引用者

読者はこの著者による適当な推測を読むことで何が得られるんですかね?
あるいは、Jobsのプレゼンは素晴らしいという文脈でこんなことを書きます。

プレゼンテーションの魔術師スティーブ・ジョブズにいきなりなることは難しいが、彼が人を魅了する力は、十分、研究に値するのではないだろうか。
66頁

ところがこんなことを書いておきながら、本書ではこの「研究」はおろか、Jobsのプレゼンがいかなるものであるかすら語られません。投げっ放しジャーマンです。


とかくこの本には自分の足を使って新しい情報を得ようとした形跡が全く見られません。「交渉術」などと題しながら、その実Jobsがいかに傲慢な人物であるかを書いているに過ぎず、現実の交渉の場面はその人物像およびマスコミ情報からの推測が書かれているだけです。
この本を読むくらいなら『iCon』を読む方が良いです。
著者は元アップル社員ということですが、経歴を見る限りJobs復帰前の(一番低迷していた)時期と、Jobs復帰直後の、それも日本法人で働いていたっぽいです。Macintoshの頃のApple Computerを描いた本としては、米国の社員(Andy Hertzfeld)の手による『レボリューション・イン・ザ・バレー ―開発者が語るMacintosh誕生の舞台裏』の方がよっぽどJobsに近い位置で書かれており、臨場感に富み、またJobsの人物像にもより深く踏み込まれていて、圧倒的に面白いです*1
本書は表題にある「交渉術」はおよそ書かれておらず、かといってJobsの人物像に迫る本としては既刊の類書よりも浅く、およそ存在意義を見出せませんでした。


あとついでに。本書ではJobsがGatesを嫌いだというようなことをしきりにアピールしてるんですが、アップル信者が思ってるほどJobsとGatesの関係は険悪ではないんじゃないかと思います。ラジオ(だっけ?)で共演した後でわざわざホットラインを使ってまで「君のセンスが悪いと言ったことは謝るよ、でも君のセンスは本当に悪いんだ」と言うなんてのは、いわゆる犬猿の仲とは別の次元なのではないかと。それに初代MacのプレゼントリストにMSが載ってたりするし。このあたり、MSに良いようにやられっ放しだった時代のアップル社員だった著者の屈折した感情が表れているように見えます。